「あぁ、飲みすぎちゃったな」
自然と声が漏れる午前十一時。眠りすぎた訳ではない。ただ、目が覚め始めるのと一緒に、週末の四分の一が終わりかけているのを実感する。ぼさぼさの髪の状態で、鉄瓶に水をいれてコンロに火を点ける。最近、健康に気を使って、ネットショッピングで買ったもの。
昨日、お酒を飲んでいるのに、健康に気を使えているのか。考えると頭が痛い。どう?私の体さんって感じだよ。新社会人になって、一人暮らしを始めて、三か月の時間が流れていた。私は何か変わったかな。生活が豊かになりそうな雑貨が増えただけな気がする。
「優佑くんは変わっていたなぁ」
昨日の高校の同級生との飲み会の騒がしさが、より一層この音の無さを強調してくる。それは、もうフォルテシモくらいに。
「どうよ。新社会人は。一緒に飲む元気があるなら懐かしのクラスメイトとどう?」
薫からだった。同じ大学にも進んだ薫の「若菜」って呼んでくれる声に、何度救われてきたのだろう。この時もそう思っていた。久しぶりに薫から電話が来て、硬直していた表情筋が柔らかくなった。この部屋で、笑ったのは初めてかもしれない。それくらい楽しい時間が突然始まった。もちろん、その元気のまま肯定的な意思表明をした。声をかけているっていうメンバーはみんな懐かしい名前だった。同窓会ってほどの人数ではない。本当に仲の良かったいわゆるイツメンに声をかけていた。その最後に彼の名前が出た。
あ、優佑くんも来るよ。それは、思い出したかのように言ったのか。それとも、わざとらしく最後に強調してきたのか。特に何の感情もなかったっていうと嘘かもしれない。元気かな。本当にそれだけ思ったのだ。
「蝶ってすごくない?僕が一番好きな虫」
理科の時間。中学に入学して、間もない私たちは、授業中に外に出るってだけで遠足のように感じた。放課後に見る景色と同じなのに、授業中に見る景色は、また別の見え方になる。男子たちみたいに走り回らないけど、静かに気持ちが高まる。そんな中で、優佑くんは、観察している。
「どうして、すごいの?わたしもきれいで好きだなぁ」
蝶のイメージなんて、きれいしか持っていなかった。蟻のようにちからもちってわけでもないだろうし。単純に気になった。そんなに話したことはない子だったから、余計気になったのかもしれない。この子って眼鏡かけていたんだ。そんなことも頭に浮かんだ。
「こんな見た目のいもむしが、その見た目のまま、さなぎになるのに、最後は蝶になるんだよ。こんなにきれいになるんだよ。本当にきれいだよね」
くりくりな目で私を見つめながら、優佑くんは言った。その後は、将来の夢の話になって、将来の夢は、お医者さんであることを知った。本当に彼ならなれるんじゃないかって。中学生ながら、なんにも根拠はないのに、家に帰ってから、お母さんに自慢した。
その日を境に、なんとなくその眼鏡に惹かれるように、いっしょに中学生活を過ごして、志望校が地元の進学校なのも同じで、必死に勉強をしていた。合格発表で二人の番号が続いたときは、涙を流した。そんな楽しい時間を過ごせた。
高校に入ってからは、クラスも違くて、話す回数がどんどん減っていった。周りの子がどんどんおしゃれに興味を持って、かっこよくなるのに、優佑くんはくりくりな目をぼさぼさな髪で隠して、眼鏡をかけていた。
ある日、たまたま、帰るタイミングが同じになった。久し振りにちゃんと話すことができた。優佑くんはなにも変わっていなかった。医者を目指して、しっかり勉強していた。この進学校でも学年で一番頭が良いことは知っていたけれど、まだその夢を追いかけていることに驚いた。もちろん、いい意味で。
「蝶みたいに羽ばたいてね」
私は、別れ際に優佑くんも見てそういった。夕焼けに照らされた私の顔はどう映っていたのだろう。この時に、アゲハ蝶とかが目の前を飛んでいたら、ロマンチックなのに。そんなことを照れ隠しのように考えていた。
「きれいな君のことが好きだ」
突然だった。勉強の邪魔にならないように、この想いには、蓋をしようと思った日だったのに。蓋をする前に、中に入られた。私も。私も、優佑くんのことが好き。こんなきれいな言葉ではなかったかもしれない。突然の出来事に顔を赤くして、手で顔に蓋をして、目の前の優佑くんを見ることができなかった。
「これから、僕のバタフライストーリーが始まるよ」優佑くんが、そんなことを言うとは思っていなくて、今度は笑って、顔を赤くして、手で蓋をした。彼なりの、優しさだったのだろう。それとも、困っていたのかな。顔を見ればよかった。そんなことを考えている余裕もないはずなのに、あふれ出る気持ちを隠そうとたくさん感情の引き出しを惹いた。
それから、高校生活は明るくなった。楽しくなった。相変わらず、優佑くんはくりくりな目をぼさぼさな髪で隠して、眼鏡をかけていたけれど。そんな、優佑くんのことが好きだった。
しかし、彼は、卒業式に来なかった。それから、連絡も取れないし、会うこともできなかった。三年生の秋からは、優佑くんがあまり学校に来ないで勉強していたこともあって、楽しかったのはほんの一年くらいだった。私は何度も彼の家に顔を出した。
そのたびに、優佑くんのお母さんが「ごめんね」って、悪いことなんてしていないのに。本当に、お母さんが悪かったかのように謝っていた。納得しないまま、四月を迎えようとした日、彼の家には、誰もいなかった。引越しをしていたみたいだ。
すごい悔しかった。何も言わずに、私ってそんな存在でしかなかったんだって。何度も何度も自分を蔑んだ。けれど、バタフライになって、あのぼさぼさな髪で目の前に現れるかな。無理やり自分を元気にしようと。偽りの元気で偽りの言葉で、自分を奮い立たせた。
そこからの大学生活は、薫が居てくれて本当に良かったと思う。だからこそ、その四年間で少しずつ彼の存在が私の中で薄くなってくれて、飲み会の話が出た時も、壊れなかったんだと思う。
それなのに、この一週間は、仕事は手付かずだった。ぼーっとする時間が続き、仕事が終われば、なにを着ていこうかとデパートをはしごしていた。木曜日には、両手に紙袋を抱えていた。そのまま、誰もいない部屋でブティックショーが始まるのだ。かつてないほどに、部屋に色彩が現れた。けれど、一番、驚いたのは、町で蝶を追ってしまうことだった。
緊張して、メイクもちょっと失敗して、それが悔しくて、またアイメイクがにじんで。一回全部落としてやり直したいのに、そんな時間はなくて。アイメイクだけ何とか落としてやり直して。
そんな自分は馬鹿馬鹿しかった。集合場所に着くと、金色に染めた髪に、両耳のピアスが目立っていた。容姿批判とかそういうのではない。ほんのちょっと、驚いただけ。自分の中の優佑くんの像と合わなかっただけ。そう言い聞かせた。なんとなく、全てが別人のように変わってしまったんじゃないかって、ただ一年付き合ってただけの信憑性のない自信が私の中で暴れていた。
それでも久しぶりのクラスメイトとの飲み会は、楽しかったといえば、楽しかった。なのに、彼が、一浪して、夢を諦めてなんとなく文系の大学に進学したこと、飲み会ばかりで、朝がきつくて単位を落としまくっていることを話したときは、どんどん笑えなくなった気がする。そうして、彼は、笑いながらそんなことを話すんだろう。そう思っていた。
その後の記憶はあんまりない。多分、ぼーっと、みんなが笑ったタイミングで笑っていたくらいだ。
「今日はみんな、ありがとうね」その薫の言葉で解散になった。薫は、その場で、ごめんってみんなにばれないように謝った。あの時の優佑くんのお母さんと同じ顔だ。そう思った。なんで、そんなことを思い出したのだろう。「なんで謝るのよ!楽しかったよありがとうね」という言葉を残して、駅に向かった。
こぼれてしまいそうな涙を我慢しながら、頑張って光っている赤信号で止まっていると、右手を握られた。優佑くんだった。
「この後、空いてる?僕の家で飲みなおさない?」
私は、知りません。という言葉を自分の中で最上級に冷酷に伝えた。その後は。バカという音を漏らしながら、走った。息切れすらも忘れるほど、ただがむしゃらに。
君との赤い糸は、蝶々結びだったみたいだよ。勝手にほどけてくれたよかった。
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